「氷菓」考察 愚者のエンドロールとクドリャフカの順番、2つの長編を繋ぐ2つのテーマ

はじめに

「氷菓」の長編は文化祭に纏わる話が多い。
というか、ここまでの3編は全て文化祭絡みなんですよね。
第一長編「氷菓」は、古典部が文化祭で頒布している文集「氷菓」に纏わるエピソードでした。
第二長編「愚者のエンドロール」は、その文化祭で上映される予定の自主製作映画に関するエピソード。
そして、完結したばかりの第三長編「クドリャフカの順番」は、文化祭の間に起こった謎の盗難事件を描いていました。

お話的にも「氷菓」で現古典部メンバーの入部から始まって、文集制作が決まり、そして実際に頒布されるまでを描いているという点でも繋がっている。
長編3本を持っていよいよもって作品は1つの壮大なお話にピリオドを打ったと考える事も出来そうです。

となると、次なる長編からは心機一転。
2重の意味で新たなる物語が始まるのだろうと想像に難くないし、そう考えると本当にワクワクします。

さて。
こうして3部作とも言えそうな3つの長編をボーっと振り返ってみますと、どうも本質的なテーマに関しても共通している点が見出せるのではないかと思い立ちました。
特に「愚者編」と「順番編」は、描かれていたテーマが密接に、そして相互に関わりを持たせていたのではないでしょうか?
大きく2つのテーマで、その関連性が見られると考えています。

持っている者と持っていない者、それぞれの苦悩

テーマの1。奉太郎と里志の内面描写に関して。
この2人の関係は、まぁ、友人・部活仲間等。そういう普通の関係ですけれど、少し複雑ですね。
期待される者と期待を寄せる者の関係。
もとい里志にとっては奉太郎は超えたい存在であり、奉太郎自身としては、里志に対してそれらの感情に応えるという気持ちを持っていない様に見えます。
というのも、里志が表だってその感情を奉太郎に向けていないからですね。

時折気持ちの断片を奉太郎の前で出しちゃってますけれど、それくらいは御愛嬌というか。
嫉妬にも似た気持ちを押し殺し、奉太郎に歪んだ感情を向けない里志は凄いとも思うのです。

さて。「愚者編」に於いて里志と同じポジション。
奉太郎に期待を寄せる人物が登場しました。入須です。
面と向かって期待していると言われ、発破まで掛けられた。
自身の素質に自信を持っても良いのではと考えるまでに至っていた。

そうして期待に応えるために奮起し、入須を満足させる事が出来たものの…。
その「期待」が「偽物」であり、「他人から認められた」と思っていた事実もまた嘘であった。

結果的には、奉太郎は自身よりも高位の(と書くと語弊がありますが)存在である入須に良いように操られ、行き場の無い怒りと悔しさを覚えた。
奉太郎視点で描かれた「愚者編」。
他人から認められたり、期待されれば誰だって気持ちが高まります。
嬉しいに決まってるんですよね。
そういう気持ちを利用されたのですから、奉太郎としては非常に不愉快な思いをしたことでしょう。
里志にして見れば羨ましいであろう奉太郎の「能力」ですが、このように利用され、悪い気分になる事もある。
そういう解釈も可能なのではないでしょうか。

「順番編」になると、視点が今度は里志に移ります。
奉太郎の怒りも知らない里志は、やはり奉太郎に変わらぬ「期待」を寄せ続け、一方で超えたいとも思っていて。
奉太郎よりも先に十文字事件の犯人を捕らえようと躍起になるものの、しかし、そんな頑張りは報われず。

なんていうのかな。
このエピソードのキモは、里志の奉太郎への「期待」は決して偽物では無いという事でしょうか。
先程もちらっと書きましたが、奉太郎への気持ちが歪んでしまって、友人関係なんて続けるどころか険悪な関係になっていたとしても、然程おかしくも無いと思うのですよ。
まだまだ精神が不安定なお年頃ですしね。

そうはならずに、「期待」というどちらかと言えば好感情に自身の気持ちを転嫁できて、変わらぬ友人関係を続けている里志の何と素晴らしい事か…。

「期待される者」と「期待を寄せる者」。
その両者の視点に立って、どちらにしても苦く辛い出来事があるという事を描いている。
そして、共に明確な救いは与えられていない。

「ほろ苦い」という柔らかい表現をしている今作ですが、描かれている内容は結構シビアですよね。

対立する2つの意見が、それぞれの動機となっている

テーマの2。
解釈が難しいのですが…作品の価値観っていうのでしょうか…。
作品の読み方?かな。

「順番編」の漫研での争い。漫画の読み方に関しての摩耶花と河内の意見の対立。
河内の意見は

漫画の面白さは本来は皆同じ。
読み手の感受性の差によって、面白く感じるかどうかが変わってくる。

というもの。
また、名作とは

長い時間の中で、沢山の読み手(鑑賞者)に振るいに掛けられ、落とされずに残ったもの

であるというもの。

これに反しての摩耶花の意見は

名作は最初から名作として生まれてくる。
書き手の才能や技術の差は絶対にある。

というもの。
書き手の才能や技術が無ければ、駄作は駄作として生まれてくる。
逆を言えばこういう事であり、かなり現実的というか、シビアな意見。

河内の意見は、まぁ、冗談みたいなものでした。本気では無かった。
彼女自身本音では摩耶花と同意見なのかもしれない。
しかし、認めたくは無かった。

近くでその「才能や技術の差」をまざまざと見せつけられたから。
摩耶花の論を認めてしまうと、その差も認める事となる。
悔しい・羨ましい・妬ましい…。
汚らしい感情が心を支配し、友人として関われなくなってしまう…。
そんな葛藤があったのかは定かでは無いですけれど、非常に深く、そしてやはりシビアな物語が垣間見えます。

面白いのが、この2人の論争がそのまま2つの長編の動機にも繋がっている点。
「愚者編」に於いて、入須は本郷の書き下した脚本を主観でつまらないと判断。
はっきりと明言されたわけでは無かったですが、供恵の追及に対する彼女の反応から見ると、恐らく本当。

入須が河内の考えと近い意見を持っているかどうかまでは分かりません。
が、入須の取った行動というのは、まさしく河内の考えそのものだと考えます。

本郷の提示した人の死なないミステリを面白いと思うか、つまらないと思うかは人それぞれ。
それを個人の判断のみで判定し、つまらないと決めつけてしまった。
そのままクラス会議なりに掛けても、結果としては同じだったかもしれません。
殺人ミステリを求めている人が殆どでしたから。
でも、個人の主観で決めていい事だったとも思えません。
もしも、えるが入須の立場で、脚本の採否を決めたのならば、えるは間違いなく採用していたでしょう。
「読み手の感受性の差によって、面白く感じるかどうかが変わってくる。」事を体現されていると思えます。

「順番編」では、田名辺が摩耶花の意見を盲信的に信じている(ように見える)からこそ起きた事件。
書き手(陸山)の圧倒的な才能に惚れ込んだ田名辺が、書き手にどうにかして新作を描かせたいがために起こした事件です。
いくら原作が面白くても、描いて見なければ分かりません。
田名辺が「名作は名作として生まれてくる」という事を本気で信じていなければ、十文字事件は起きなかったかもしれない。

まとめ

「氷菓編」から「順番編」までの3つの長編は、色々な意味でリンクしていると思います。
アニメに留まらず原作に手を出して、読み込めば読み込むほど更なる発見があるのではないかと感じずにはいられません。

今回の僕の解釈が正しいのかどうかまでは分かりませんし、あまり自信も無いです。
もっともっと作品を深く理解して、今回の解釈が正しいかどうか。
いつか自分で判断できるようになりたいものです。

今はネタバレが嫌で原作に手を出しておりませんが、アニメ放送後にはちゃんと買って、読み込みたいですね。

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