「たまこまーけっと」から香る懐かしさに関する一見解

この記事は

「たまこまーけっと」の記事です。
クドイ文章を何とかしたい。

はじめに

ツイッターのTLをボーっと見ていて「たまこまーけっとから懐かしい空気が」とか「80年代アニメの雰囲気が」というツイートを目撃。
1話を見て、僕自身そういう風には受け取らなかったので、このような感想はとても新鮮でありました。
やはり、ツイッターとかブログとかの意義っていうと、自分には無い感覚や感想に接せる事ですね。

で、昨日の第2話。
こういった感覚で作品を視聴し、成程〜と。
他の方がどういった意図から、このアニメから懐かしい空気を感じ取ったのかは分かりませんので、あくまでも僕自身の考えですけれど。
少し触れてみようと思います。

“フィクションを前提とした実在感

あくまでも個人的な感覚なのですけれど、昔の作品と近年の作品の大きな違いとして「理論武装」しているかどうかが挙げられるのかなと思っております。
もっとざっくり言いますと”フィクションを前提として実在感(リアリティ)がある”か否かです。

少し話を大きく逸らしてみます。
例えばそうですね。
ロボットアニメとか適当なのではないかなと。
ロボットアニメには、大雑把に分けると「リアルロボットアニメ」と「スーパーロボットアニメ」に分けられます。
前者は「機動戦士ガンダム」シリーズ等。後者としては「マジンガーZ」等々が代表格です。

違いとしては、「スーパーロボット大戦」シリーズのプロデューサー・寺田貴信氏の言葉が分かりやすいです。

「(スーパーロボットとリアルロボットの境目は)説明できるエネルギーで動いているか」

「リアルロボット」の方は、「どういう構造で、どうして動いているのか」を(実現の可能性は無視して)きっちりと描写している作品群であり、「スーパーロボット」は「何故動いているのか?それは誰にも分からない!!」と良い意味で開き直っている作品ですね。

んで、僕の主張としては、昔のアニメが「スーパーロボット」で、近年のアニメが「リアルロボット」に近しいという事ですね。
先程、”フィクションを前提として実在感(リアリティ)がある”という言葉を書きましたが、この言葉はリアルロボットについて書かれたwikipediaのページから抜粋したものです。

近年のアニメって、本当に”リアリティ”を追求したものが多い印象が強いんです。
これは「アニメ」という括りよりも”原作”である漫画やラノベ等々も含め、漫画・アニメ等サブカル界全体に及んでいるとしても良いかもしれません。
とかく、何につけても理由や理屈を用意し、破綻・矛盾の無い作品を構築しようとされている…気がするのです。
「日常モノ」が持て囃されるのも、割とその為なんじゃないかなとか思ったり。
(作品の世界観としては”現実のトレース”で済む分、世界観の矛盾や破綻は起きにくいですから)

これって、なんとなくですがネットの発達が大きいんじゃないかなと思っていて。
昔と違って、ネットの発達によって”視聴者(読者)の声”がダイレクトに届く事も多くなりましたし、拡散・増長されやすくなってきました。
少しでも矛盾でも孕んでいようものなら、指摘され・突っつかれるし、場合によっては”炎上”してしまい…。
このような”ネットの声”は無視できないものになってもきていると思うのです。

その対策…という訳では絶対無いでしょうけれど、どこか「説明の多い作品」が世に溢れて来ている気がします。
深夜帯での放送が増え、メインの視聴者層が底上げされたからというのが大きそうではあります。
(漫画も愛読する層が高齢化してきているようですし。)

反して、昔の作品は、もっと緩い感じがありました。
まさしく「スーパーロボットアニメ」のように「細けえことは気にすんな」という感じで、多少の矛盾や破綻も”無視”して、パワーで押し切るような。
そんなイメージが強くて。

もう一つ例を出せば、藤子・F・不二雄作品とかどうでしょう。
「ドラえもん」は、ひみつ道具を持っていますけれど、その道具一つ一つに関して細かな”仕組み”は描かれておりません。
タケコプターで何故人が飛べるのか、四次元ポケットはどうやって作られているのか。
どこでもドアの時空移動の理論はどうなっているのか…等々。

こう言った事が描かれていなくてもOKな世界観だし、これぞ藤子F先生の「S(すこし)F(不思議)」世界なんですよね。
「ドラえもん」のひみつ道具は、未来のデパートで普通に手に入る物なので、”存在が秘密”なのではなく、”構造・理論が秘密”なのが良い所なのです。

で、有り得ない妄想ですけれど、この「ドラえもん」が”現代で生まれ変わった”らどうなるか?
若しかしたら、監修として柳田理科雄さんがクレジットされた作品になっていたかもしれません。
現実の物理法則や科学技術の知識を持って、ひみつ道具を「科学」して、それとなく現実感のある描写がされる。
「すこし不思議」な「SF」は何処かへ行って、「サイエンス・フィクション」としての「SF」作品になっていたかもしれません。
“構造・理論”の秘密性は薄れ、夢が持ちにくくなりそうです。

この例えは大概ですけれど、これ位の違いが昔のアニメと今のアニメには有ると感じているんです。

長く迂回しましたが、話を元に戻します。
「たまこまーけっと」は、藤子F先生の描く「SF(すこし不思議)」感たっぷりのアニメだな〜と。

デラ・モチマッヅィを”語らない”作風

鳥が人語を喋る。
異常です。
ホラーです。ミステリーです。
世紀の大発見です。

現実でそんな光景があれば、もう世界中パニックになるんではないでしょうか。
連日連夜世界中のマスコミから取材が殺到し、怪しげな組織や団体が”真相究明”に乗り出し、どこぞの機関が調査に動く。
そんな事が考えられるくらいには、異常な事です。

この作品は、「日常モノ」を根底としている作品だからこそ、現実に考え得る同じようなリアクションがあってもオカシクないんですよね。
少なくとも、「何故鳥が喋るのか」の説明が入っても良い気がするし、僕のイメージとしては「寧ろ説明が入るべき」位には思っておりました。

でも、実際そういう風な展開にはなっておりません。
取り敢えず「鳥が喋った事」に関して一定の驚きというリアクションはありました。
が、それだけ。

デラ・モチマッヅィが何者で、どうして喋れるのか。
誰も何もツッコまないし、追求しない。
作品としても一切説明しない。

寧ろ驚きは一瞬で、皆当たり前のように受け入れてしまっている。
その上で、今まで通りの日常を送っている。

あくまでも2話までの印象だと、「SF(すこし不思議)」を地で行っていると思うのです。
直ぐに「SF(サイエンス・フィクション)」に振っちゃう最近のアニメの印象とは違う。

「そんな細かい事気にしないで、楽しもう!!」という雰囲気がビシバシと伝わってくるんです。
日常に投げ込まれた”異質”の”異常性”に目もくれず、”同質”のものと見做してしまう作風なのかなと。

結語

結論としては、↓を思い出すからですね(ぇ

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