ホントは怖くない「ドラえもん のび太と夢幻三剣士」

この記事は

「ドラえもん のび太と夢幻三剣士」の考察記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

全く怖くない「のび太と夢幻三剣士」

先日「ドラえもん のび太と夢幻三剣士」をレンタルして、視聴しました。
いやあ、懐かしかった。
僕の思い出の作品なんですよ。
この作品が切欠で「大長編ドラえもん」(←「映画ドラえもん」では無く)に嵌り、コミックスを集めまくったんです。
当時小学生。
非常に懐かしい気持ちで見る事が出来たのですが、今見返すと、なかなかに深いお話だったんだな〜と言う事に気づきました。
単純なRPG風英雄譚としてしか見れてなかった小学生当時とは違う感想を抱いたのです。

で、調べてみると、「ホラー」とか「怖かった」とかいう感想がちらほら。
今回の敵である妖霊大帝オドロームが、普通に恐ろしい容姿をしているから…というのもあるのかな。
しかも、シリーズで唯一のび太としずかの死が描かれている事。
これも恐怖を煽る一因になっているのかもしれません。

そして、極めつけは不可思議なオチ。
まるでユミルメ城の如く高い山の上に聳え立つのび太達の通う小学校が、一層の恐怖を煽るんでしょうね。

そもそも何故こんなホラーちっくなオチになったのかといえば、夢カセット「夢幻三剣士」と「気ままに夢見る機」が原因でした。

「夢幻三剣士」は

夢見る人の行動によって世界の情勢が変わり、さらにそれが現実世界にも影響を及ぼすほど強いパワーを持つ

という事。
「気ままに夢見る機」も「夢と現実を逆転させる」隠しスイッチを押しっぱなしのままお話が終わっていたりする。
このように「夢と現実が交わってしまった世界」のままお話が終わってしまった点が作品全体の印象を「怖い」ものとしているのかもです。

でも、実際は全く怖くないストーリーなんだと思うのですね。

「夢幻三剣士」の謎

そもそもの謎として、「夢幻三剣士」とは何だったのか?と。
結論から申しますと、僕はこのソフトは、ユミルメ国と地球とを結ぶ「ドア」のようなモノと解釈しております。
ユミルメ国は夢の中の架空の国ではなく、実際に存在するどこかの世界の国だと思っているんです。
これについては、非常に素晴らしい考察を見つけました。

『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』の謎 「ぺぺろんの要塞  ぶろぐ」さん

一部要点だけ抜粋させて頂きますと

パッと見ると、この映画の冒険は夢の世界が舞台で
不良品の夢カセット「夢幻三剣士」の暴走が原因に見えます。 

しかし、オドロームの部下トリホーは、のび太が
カセット「夢幻三剣士」を入手する前から現実の世界に干渉し、
のび太の手にカセットが渡るように画策しているのです。

(中略)

…さらに、妖霊大帝オドロームは自らが夢宇宙に存在する
ことを認識し、それ以外の世界、目覚めの世界が存在する
ことを知っています。

(中略)

夢宇宙、ユミルメ国は気ままに夢見る機の
夢カセットの中の架空の世界ではなく、
(名前に反して)確実に存在する
もう一つの現実の異世界なのです。

僕も同意見なのです。
この考察に更に裏打ちをするならば、「映画ドラえもん オフィシャルサイト」を挙げます。

映画「夢幻三剣士」のゲストキャラクターの項は、ドラえもん以外の全主要キャラが挙げられております。
ノビタニアン。(原作では「ノビタニヤン」)
妖精シルク、シズカリア姫。スネミスにジャイトス。
皆、気ままに夢見る機の力でのび太らが「乗り移った人物」ですが、彼らは「ユミルメ国に元から存在する人物」なのでしょう。
顔が同じなのは、瓜二つのそっくりさん。
名前が似ているのも、偶然。
だからこそ、このゲストキャラページに記載されているんだと思うんです。
のび太らとは異なり、現実に存在する別キャラだから。

気ままに夢見る機というのは、一種のサイコダイブなのでしょう。
精神だけゲームの世界やユミルメ国に”飛ばして”いる。
中盤で、ジャイアン、スネ夫、しずかは、そうしてユミルメ国のジャイトス、スネミス、シズカールの体を「乗っ取った」。

ドラえもんだけゲスト扱いでは無いのは、ドラちゃんだけユミルメ国に存在しない異分子だからかなと。
「インストラクター」として、アンテナを付けてユミルメ国に潜り込んだ存在で、ドラだけ誰の体も借りていなかったと解釈出来ると思うんです。

一度は死んでしまったのび太としずか。
生き返れたからいいものの、あのままだと現実世界でも死んでいたんでしょうね。
精神が壊れた事に等しそうなので。
こう解釈すると、やっぱり怖い物語として映る。

けれど、見方を変えて「ドラえもんらしい解釈」を行えば、全然怖くないんです。

夢を叶えるのび太の努力を描いた作品

「ドラえもん」に抱くイメージ。
明るく、夢と希望を抱かせてくれる前向きな作品。
これが僕のイメージです。
本来はギャグ漫画なので、こういう解釈は間違っているのかもですが、映画では特にこの趣が強く出ていると思うのです。

このイメージに照らし合わせて今作を見てみます。
すると、「夢」の解釈をもっと素直に「将来の希望」に置き換えてみれば良い。
「眠っている時に見る夢」ではなく「将来〇〇になりたい」という希望を述べる時の「夢」と解する。
作品を改めて振り返ってみます。

作中ではのび太が夢を語っています。
しずかと結婚するんだという夢を。
夢の中での夢を。

オドロームは、そんな将来の夢に立ち塞がる「障害」です。

一度はそんな障害の前で夢破れた(死んでしまった)のび太。
しかし、彼が持つ「たった一つの一番」である「優しさ」で勝ち得た「再挑戦」(復活)という切り札で、再び夢を実現すべくチャレンジする。
見事障害を乗り越え(オドロームを倒し)、「優しさ」に打たれたしずかが結婚を認めてくれる。

ラストシーン。
山の上に立つ奇妙な学校は、のび太の夢が少しだけ現実味を帯びたという象徴。
「唯の夢」を見ていたという認識だった筈のしずかもまた、のび太に好感度を抱いてくれていた。

「夢を抱く事の大切さ」。
「夢を叶える事の難しさ」。
「努力は現実を変える」という希望。

実に「ドラえもん」らしいエッセンスが散りばめられた作品に思えてきませんでしょうか。
主題歌の「世界はグーチョキパー」。
実に明るく、また「認め合う事の大切さ」を謳った深くも素晴らしい歌です。
この中でこのような歌詞があります。

一番が ひとつ あれば いいんだねえ

のび太は、そんな「誰にも負けない一番」である「優しさ」を持っているから、トリホーに白銀の剣士に選ばれた。
優しさが仇となって、龍を殺して不死身になる事は無いと思われたから。
しかし、その優しさが、最終的にはオドロームを倒すに至った。夢を叶える事が出来た。

誰にも負けない一番を持って、夢に向かって努力する事の大切さ。
そういうのが謳われた作品だったんじゃないでしょうか。

終わりに

ラストの学校のシーンは、原作には無い映画版独自のシーンです。
映画を総指揮(脚本も担当)した藤子・F・不二雄先生は、このシーンを原作から足す事で、より強いメッセージ性を込められたのかもしれません。

夢見る力がお前にある限り、出来ない事はこの世に無い
劇中歌「夢の人」より

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