「響 〜小説家になる方法〜」は何故面白いのか~巧妙な「天才」の描き方~

この記事は

「響 ~小説家になる方法~」の考察記事です。
ネタバレあります。

第7巻発売!!

やっと新刊が発売されました。
この記事を上げたら、早速読み始めます。

さて、その前に。
この漫画には、響という天才が登場します。
その天才の見せ方についての考察です。

凄い小説

響の天才性を演出するには、その小説を書くのが最もスマートです。
誰もが共感し、作者を敬うレベルの小説。
しかし、それが書けたら作者の柳本先生は、小説家として脚光を浴びて、時の人になっているでしょう。
それこそ作中の響のように。

この漫画の肝は、「響の小説」が全く描かれていない事です。
これはポイントです。

万人に響は天才だと思わせる為に、敢えて小説を描いていません。

畑違いではありますが、一文節程度であれば、漫画家と言えど小説を書くことは出来る筈です。
もし柳本先生が書けなくても、担当なりが書けば良い。

でも、それをやってしまうと、「万人に」天才だと思わせる事に失敗してしまう。

歴史に残る小説や随筆などは、冒頭分だけで既に有名なモノがいくつもあります。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓(とん)と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いて居た事丈は記憶して居る。

「吾輩は猫である」の冒頭です。
読んだ事無い人でも、知ってるレベルの冒頭です。

徒然(つれづれ)なるままに、硯(すずり)に向かいて、心にうつりゆくよしなし事(ごと)を
そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂(ものぐる)おしけれ

「徒然草」の冒頭です。

このレベルになれば、誰もがこの作品の作者を天才だと思える。
けれど、なかなかそれを書くのは難しいです。
冒頭だけで天才だと思わせる程の一文を捻りだすのは相当な苦労を擁する事でしょう。

だから、敢えて描いていないのだと思うのです。

では、どうやって、響の天才性を描いているのか。

編集者

そこでキーとなるのが編集者です。
文壇にかつてないムーブメントを起こせるような天才を探していた花井ふみの目に留まります。

応募要項すら守られず、手書きの原稿を送ってしまった響は、読まれる事無くゴミ箱行きになってしまう。
それをたまたま拾ったふみが、偶々読んで、魅了される事から全てが始まります。

「文壇にかつてないムーブメントを起こせるような天才」なんですよね、ふみの中では。
それ程の逸材に出会ったと描かれると、僕ら読者も「響の小説を読まなくても、凄い小説なのでは」と想像出来ます。

自筆の原稿をわざわざデータ化してまで、賞に出したかった。
このふみの情熱と本気度が、響を天才少女として描き出していました。

響の処女作は、更に賞レースを総なめします。
一出版社の新人賞レベルでは、ごろごろいても、芥川賞・直木賞のW受賞なんて人は、前例がない。
未だかつて誰一人として無し得なかった偉業を響は「お伽の庭」で果たします。

これは非常に分かり易いほど分かり易く響がどれだけ天才なのかを示していますよね。

片方だけでも受賞すれば栄誉であり、文壇で一定の地位を得られるのに、同時受賞をしてしまうんですから。
響自身それにも動じずに、自身を貫いている辺り大物感漂わせています。
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まとめ

天才を描くことって容易じゃありません。
読者が読んでいて、こいつは天才だと思う。
思わせることは、実は難しい。

世の中には本物の天才がいますからね。
彼らが読んでも、天才だと思えるほどのリアリティを持たせられるかと考えると、安易な表現は出来ない。

「響」は、そこ行くと非常に巧いなと。
敢えて響の小説を作中に出さない。
その上で、先ず、「小説を分かってる人間」であるプロフェッショナルのふみに食いつかせる。
文壇を変えるほどの力を持った小説だと彼女に思わせる。

そして、現実でも誰も無し得てない偉業を軽々と響が成し得ることで、完全に響を天才たらしめている。

誰が読んでも、響は天才なんだと疑わない説得力があります。

「響 ~小説家になる方法~」。
何処をどう読んでも、小説家になる方法なんて分からないのですが…。
天才の描き方が非常に巧くて、それが作品の面白さに直結してるんだと思います。

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