この記事は
「劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章」の感想です。
ネタバレあります。
上映時間3時間5分!!飽きない凄味
日曜に見てきました。
3時間という長尺なのに「飽きない」ってのが、実は一番凄いところだったのではないか。
「好きだから飽きないんでしょ?」と思われるかもしれん。
一理ある。
全否定は出来ないけれど、好きなものでも3時間はやっぱり長いのよ。
どうしてもだれてしまう。
けれど、そうは感じなかったのは、緩急がしっかりとついていたからだと考えている。
盛り上がる戦闘シーンは、相も変わらずの超絶クオリティで見せてくれるから、飽きる訳が無い。
比較的飽きやすいのは、だから人間ドラマ。
過去回想とかね。
終盤の猗窩座の回想は、大事な部分だから、ここは心情を丁寧に拾って、たっぷりの尺で語られているのは個人的に「正解」。
なので、猗窩座以外の回想シーン。
いっぱいあったけれど、どれもこれも長くなりすぎず、飽きる前にスパっと終わっていた。(ほぼほぼ原作通り)
個人の感覚なので、同意の得にくいところかもしれないけれど、僕にとってはこれが凄く有難かった。
「鬼の進化の過程」
改めて「無限城編」を映画という媒体で見て気づいたのは、「鬼の進化の過程」を描いているところ。
原作を読んでいた時は、感情が「それどころじゃない」ってなってたから気づけなかった。
いやさ、アニメではアニメならではのショックもあるんですよ。
分かってても、あの人やこの人が犠牲になるシーンは辛い。
童磨ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ(# ゚Д゚)
ってなる。
鬼でぶっちぎりで嫌い。
閑話休題
童磨の悪口だけで終わりそうなので、本題。
「鬼の進化の過程」。
戦いが始まった順に
① vs童磨
② vs獪岳
③ vs猗窩座
先ず①。
単純に「上弦の強さ」が描かれている。
童磨に散々なこと言われてましたけれど、しのぶは決して弱くないんです。
確かに小柄で、鬼の首を斬れるだけの筋力は無い。
けれど、スピードや突きの威力は柱の中でもトップクラス。
これに加えて、鬼をも殺せる毒を駆使した戦闘力は、柱に相応しい実力を持っています。
それでも童磨は強かった。
この闘いの結末を知ってるので、「童磨が勝った」とは言いたくないのですが、上弦の強さを見せつけることは間違いなく出来ていた。
続いて②。
妓夫太郎と堕姫が倒され、空位となった「陸(ろく)」の座に就いた獪岳。
ぶっちゃけ、こいつが上弦の陸だったという事実をこの映画を見るまで失念しておりました…。
獪岳は、「鬼の進化の過程」と考えると大分無理がある。
だって弱いし。
映画では、かなり強く見えるようにしてもらっていました。
原作だと本当に光の速さで善逸に首切られてましたから。
無理矢理だけれど、愈史郎が「あと一年」と評価していた部分を好意的拡大解釈して、「技の練度を上げた鬼は強くなる」ということを教えてくれた存在としておきます。
そうした教えを見てる側に植え付けた直後の③。
猗窩座の強さの根源は、まさしく練り上げた技にあることが示されます。
人間時代、我流の喧嘩で鳴らした少年時代。
師と出会い、しっかりと武術を習った青年時代。
鬼となり、強さだけを求め、強者との戦いに明け暮れ幾星霜。
「鬼の強さは食った人間の数」というのが、これまでの作中での認識であり、それは正しい。
無惨を除けば童磨がその最高位であり、童磨が猗窩座よりも後に鬼になったにも関わらず、猗窩座を凌いで上位に着いた最大の理由。
「人を食って強くなる」のではなく「研鑽を積み、戦いを繰り返すことで強くなった」稀有な例。
そんな猗窩座だからこそ、弱点の首を刎ねられても尚再生を試みるという「鬼とは異なる存在」に化けかけたのだと思う。
それこそ、無惨と同じ領域に手が届きかけた。
この後、童磨との決着、上弦の壱・黒死牟戦。
そして最終決戦であるvs無惨と続きます。
(鳴女は、戦闘特化では無い為除く)
“現時点”で唯一首を刎ねても殺せない無惨へと至る戦いの中で、炭治郎達鬼殺隊は、鬼の進化を辿っていきます。
早い話、戦うほど「無惨に近い鬼」と出会い、それらを乗り越えることで「無惨に挑めるだけの力」を備えていくと。
生まれ持った能力に胡坐をかかず、長い年月の中で鍛え上げ、
多くの人を食らい、自身の血肉とすることで力とし、
鬼であって鬼では無い、首を斬られても死なない生物になり、「鬼の祖」として君臨する。
「無惨の強さとは何か」。
それを丁寧に辿っているんだなと気づいた次第。
駄文でした。
第二章は来年かなぁとか公開前は想像してたんですけれど…。
無理かもなぁ。
気長に続き待ちます。