「Q.E.D.-証明終了-」考察リベンジ!!燈馬想の天才性の証明

この記事は

「Q.E.D.-証明終了-」の考察記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

はじめに

先日「燈馬君は天才だ」という記事を書きました。
有り難い事に色々と反響を頂く事が出来、しかしながら、僕の考えが違うんでないかというご意見が大半を占めていました。
一つ一つ読ませて頂き、で、本気で納得してしまったのですねw
確かに僕の書いたものは論拠としては弱いというか、なってないというか…。
あの記事を読んで納得して下さった方には申し訳ないとは思いつつ、正直不出来なものであったと認めざるを得なかった…。

という訳で、リベンジ!!!
再度燈馬君の天才性に関して記事を書いていきます。
前回記事:「天才」の表現の仕方が巧過ぎる「Q.E.D.-証明終了-」

天才とは何か?

先ず、天才の定義をしっかりさせるべきかと思いました。
コメント等々でもご指摘受けたのですが、ここはきちっとした上で先に進める必要があると感じたからです。

ここで明確に差別化しておく必要があるのは、「秀才」との違いに関してですね。
「天才」と「秀才」、良く似たこの2つを截然と分けることが重要であると考えます。

「秀才」とは、簡単に言えば勉強が出来る人を指す言葉です。
学校の成績が良いとか、偏差値が高いとか。そういう人を称する言葉。

一方「天才」は、一般に「天性の素質に恵まれて才能を発揮する者」と定義され、「秀才」とは異なります。
wikipediaに分かりやすく書かれていました。

(秀才と)関連する言葉に天才があるが、天才が周囲の人間や、時には本人にさえ説明の付かない経緯で回答を導き出す一種異能者への畏怖心を含むのに対して、秀才と呼ばれる場合は、理知的に裏打ちされた高い総合能力の持ち主を指す。
したがって、「知的障害をもつが高い芸術性を示す人物」(→サヴァン症候群など)を天才と呼ぶことはあっても、秀才と呼ぶことはない。

勿論”高い学力を有し”かつ”天才性を発揮する”事もあり、天才とも秀才とも呼べる人物は存在する。
はい。燈馬君が、まさにこれに当たると思います。

噛み砕きますと前回の僕の記事は、「燈馬君は天才だ」という証明ではなく「燈馬君は秀才だ」という証明をしただけに過ぎなかったのです。
(「秀才」の証明にしても、的を外した記事であったとは思うのですが…。)

常人では考え付かない方法・思考パターンによって、思いもかけない解答に辿り着く事の出来る人物。
そういう人を天才と呼ぶのでしょうね。

天才の証明へのアプローチ

天才の定義を明確にすると、燈馬君の天才性は、彼の特異なキャラクターから見られますね。
変人に見られやすいという天才諸氏の例に漏れず、燈馬君もまた変人として描かれています。(特に初期では)

また、事件の解法過程にも見られる気がします。
これは、前回のご指摘にもあったかと思いますが。
僕のような常人には思いも付かない発想で、驚きの結末を導く過程は、彼を天才たらしめているとも感じます。

でも、これを具体的に説明するには、僕には文才も何もかも足りないので、もっと別の方法からアプローチしてみます。

と、その前に、こういう事を考えていく際に行きつく1つの壁があります。
キャラクターの天才性を考えると、どうしても背後に目が行くのですよね。
つまりは、キャラクターを描き出している作者に論点が映ってしまう。

漫画に限らず創作物のキャラクターは、そのキャラクターを描き出している作者の頭の中から生まれています。
よく「作者の頭以上のキャラは生まれない」なんて聞きますけれど、この言葉通り「キャラの天才性を考える」=「作者自身の天才性を考える」事に繋がってしまう。

でも、作者…つまりは加藤元浩先生が天才かどうか考える事って不可能です。
だって、実際にお会いした事が無いんですもの。
インタビューや創作物等、先生の残した足跡から、ある程度の推測は可能とはいえ、それが正確かどうかの確証までは掴めない。
当然僕には出来ない事です。

だからこの記事では、加藤先生の代わりとして、歴史的に天才だと称されるある人物を引き合いに出したいと思っております。
歴史上の天才に燈馬君が並んだことを証明する事で、燈馬君を天才だと証明したい。
そう言う風に論理を組み立て、それが上手く嵌れば良いなと思っているのですが…。
上手くいくでしょうか(汗

天才オイラーと並ばせる

傑作エピソードの多い今作。
皆さんはどのお話が好みですか?
僕も数多くのお気に入りがあるのですが、やはり中でも「凍てつく鉄槌」がお気に入りです。
物語がとんでもなく良く練られていて、ミステリとしてあっと驚く展開が二重三重に待ち構えているからです。

さて、この大傑作には、1人の天才が登場します。
燈馬君を推して天才と言わしめた1人の老人・岸崎翁。
この老翁は、燈馬君に一つのパズルを出します。

有名なケーニヒスベルクの橋に関するパズル。
プロイセン王国に実在したケーニヒスベルク(現ロシア・カリニングラート)には7つの橋があり、全ての橋を一度しか渡らずに回れるかどうかを問う問題です。
岸崎は、「渡れない」と証明されたこのパズルに「渡れる」という答えを出しました。

どうすれば渡れるのか?
このパズルを突き付けられた事で燈馬君と岸崎翁の頭脳戦が幕を開けるのですが…。

本編の話は置いときまして。
このパズルに「渡れない」という結論を出したのが天才数学者であるレオンハルト・オイラーです。
数学史上最も美しい式と言われている「オイラーの等式」等々で有名な人ですね。
(オイラーの等式は、そういえば「Q.E.D.」の別エピソードで取り上げられてましたね)

彼の功績はそれこそ枚挙に暇がない程なので、それについては専門書なりを参考にして頂くとして。
オイラーが天才であるという事は紛れもない事実であり、これに疑いの余地を向ける事は色々と無駄な事です。

さてと、橋のパズルですね。
オイラーは、このパズルを点と線という単純な記号に置き換えて「一筆書きが出来るかどうか」で、問題を証明しました。(グラフ理論)
作中の燈馬君の言を借りるならば

奇数個の分岐点が3つ以上ある図形は、一筆書きが出来ない

為、奇数個の分岐点が4つあるケーニヒスベルクの橋は一筆書きが出来ない、故に渡る事が出来ないという結論を出した。
というものです。

ただこれは、ちょっとした論点のすり替え。
三次元の島と橋を二次元の点と線に置き換え、「一筆書きが出来るかどうか」で考えてしまったが故に証明された問題。
岩崎翁は、原点に立ち返って三次元で問題を見つめ直し、従って「渡れる」という”正しい”別解を得ているのです。

オイラーも、岩崎も、どちらも”正しい”解答であり、歴史的に証明された事に風穴(というと大袈裟かもですが)を空けたという意味で、ひどく限定的ではあるものの、2人の人物は同じ域に達したとも見做せるのではないかなと。
天才であるオイラーの証明を”覆した”岩崎翁もまた、天才であると言えるんじゃないでしょうか。

となると、岩崎翁の出したこのパズルを見事解き明かした燈馬君もまた天才と見做して良いと思うのです。
しかも、年老いた天才が考案したこのパズルに隠された”心理の罠”まで看破したのですから、最早疑う余地は無いんじゃないかな〜と思ったりします。

まとめ

上の方で、オイラーの証明として「論点のすり替え」と書きましたけれど、でもこれ凄い事だと思うのです。
ただのパズルを数学的な話に落とし込み、証明せしめたことが当時としては画期的だったんじゃないでしょうか。
凡人には思いつかない、天才ゆえの証明法であるように感じます。

そんな天才の証明に、更に論点をすり替えて(基本に立ち返って)別解を求めた岩崎も燈馬君も(そして加藤先生もまた)天才と呼べる。
そう思ってこんな記事を書いてみました。
流石にこの一点だけを取って、オイラーと燈馬君らをイコールで結ぶような暴挙には出ませんけれども。

やはり(燈馬君が天才だという証明が)上手くいっているかどうかは分かりません。
あまり自信は無いです。
恥の上塗りをしている気分ですが、ブログという形で幾つも恥ずかしい記事を公開している事実に比べれば、大したことありませんw
きちんとリベンジ出来ているかどうかは分かりませんけれど、取り敢えず一連の記事を書く事で、天才を描く事も、また、それを証明する事も難しいのだと実感しました。

創作物で天才を描く事はとても困難なのでしょうけれど、この作品はそれでも見事なまでに天才を描き出しているように感じます。
上手く証明できていないので、僕の言葉では説得力は無いでしょうけれどw

なんにしても素晴らしい作品であることは間違いないので、未読の方は是非是非手に取って頂きたいですね。
因みに、この記事で取り上げました「凍てつく鉄槌」は9巻収録です。

NO IMAGE
最新情報をチェックしよう!