反省から入る
最初に演技について簡単に纏めておきます。
鑑賞前は、主演の平手さんの演技力にガッカリしてました。
書店で今作の予告編がエンドレスリピートされていて、延々と「音だけ」聞いてたんです。
響はクールに淡々と喋るイメージを持っていて、この映画でも同様のアプローチがされていました。
故に、言葉に感情があまり乗らない演技力が求められている筈なのですが、「それにしても…」な「声」。
端的に言えば棒読み。
抑揚が小さいとはいえ、あまりにも小さすぎる平手さんの声には、かなり落胆しました。
好きな漫画の実写化なのに、大したこと無さそうだな…と。
きっと彼女のせいで駄作扱いされるのだろうとまで思っていたのですが…。
すみませんでした。
そりゃ声優さんじゃないですものね。
顔出し俳優の中でも、殊更映画やドラマの演技は、表情や仕草、そして発声、全てで表現するものなのだと改めて思い知りました。
違和感バリバリだった台詞の数々も自然と馴染んで聞こえるのですから、音だけで評価していたことをただただ反省。
そりゃ、俳優一筋で生きている役者さんと比べれば物足りなさはありましたけれど、愛嬌でカバーされていたかな。
偶に見せる笑顔と動物園でのはしゃぎっぷりの破壊力は、想像以上でした。
現役のアイドルなんだな~と思わせてくれます。
そうはいっても、全体から見れば、もうちょっと頑張って欲しかったという映画だったのです。
という訳で、今作の感想です。
そんなオチはいらなかった
原作漫画の1巻から6巻44話までを再構成したシナリオとなっていました。
「ライトノベル編」直前までなので、一応区切りとしては良かったのかもです。
そもそも、花代子(存在自体オミットw)がいないと始まらないシリーズですしねw
という訳で、区切り方としては納得出来ますし、要所をしっかりと纏めた構成になっているのですが…。
映画としては甘いです。
…って何様なんだろう、僕は…。
言葉を知らないガキですね。
本当に感想すらまともに書けずに申し訳ありません。
えと。
ようするに、オチが無いんですよ。
まぁ、別の意味でオチがついてましたが。
警察に連行されているシーンで終わりというね。
場内爆笑でしたけれど。44話のラストと同じでしたけれど。
原作はまだまだ続くので、こういうラストでも問題無かったのだけれど、映画はここで本当に終わりです。
コメディじゃないんだから、笑いを取るオチはいりません。
結局響は、「小説家として突出した才能を持った非常識な暴力女」として終わっちゃうんです。
決して間違いじゃないけれど、この作品が表現したいところはそこじゃないでしょうよ。
響に影響を受けた人々の物語
主人公についてとことんまで突き詰めると、世の中の作品は2つに大別されると思うのです。
1つ。周りの影響を受けて主人公の活躍を描き出す作品。
1つ。主人公の影響を受ける周囲の人達を通して、主人公を描き出す作品。
今作はどちらかといえば、圧倒的に後者の側面が強いです。
その為に、響は一般人とは徹底的に違うように作られています。
響は、作家として天才という設定で、彼女の小説を読んで大なり小なり影響を受けた人々が次々と出てきます。
ただ、それだけだと「天才」という「一般人とは違う面」の差異を出すには弱いと考えられたのか…。
彼女は、性格面でも違いを見せています。
それが、誰にも忖度をしないという点です。
他人のことなんか知らない。
自分が思ったことを思った通りに実行する。
本音を隠さない。信条を貫く。
やられたらやり返す倍返しだ。
世間からは怖い人、非常識な人間と映る事でしょう。
あまりにも一般人の常識とは逸脱しているから。
だからこそ、響く人には響くのでしょうけれど。
彼女の言葉はキレ味が鋭すぎます。
思ったことを包み隠さず、歯に衣着せぬ物言いだからこそ、心にズシンと来るのでしょう。
それこそ図星を突かれれば、グラッと人生観が揺らいでしまう。
これは僕ら読者とすれば、「小説で変わった」とされるよりも分かりやすい描写ですよね。
「響の小説(お伽の庭)」を僕らは読めませんので。
兎も角、「響に影響された人々の物語」というのが、今作の軸だと思っているのです。
影響後が欠落していた
そのように響に影響された人を描くには、響と出会う前と影響を受けた後の両方を描かないと意味がありません。
変わった所をきちんとしないと影響を受けたかどうかが分からないからです。
この観点で今作を見てみます。
クレジットの順番や作劇を見る限り、主に2人のキャラクターを「響に影響を受けた人」に設定していたように思えます。
1人は祖父江凛夏。
リカは、響の圧倒的才能の前に打ちのめされるキャラクターです。
響よりも先にふみに見出され、響よりも先に小説を書いてきた子。
先輩だし、部長でもある。
リカにそんな気はなくとも、心のどこかで「響よりも上」という絶対的な優位性を持っていたはずなのです。
「戦争ごっこ」争いでついつい張り合ってしまったものの、努めて世間の常識を説いたところからも窺えるところです。
後輩にもフレンドリーな態度で接しますが、先輩への最低限の礼儀は求めるんですよね。
そんな力関係も、段々と崩れていくのです。
やがて圧倒的な敗北感に浸り、期間限定とはいえ絶交をする。
この流れは原作に準拠してるのですが、肝心の「影響を受けてどう変化したのか」が欠落してるんですよね。
嫉妬してた点を謝らせるのではなく、どう変わったのかを見せなきゃ。
2人目は、これは意外にも山本春平。
原作では、芥川賞受賞者の1人として初登場を果たしますが、映画では序盤から登場してます。
わざわざ原作にはないオリジナルのシーンを挿入してまで、出番を増やしたのです。
原作にはない「後日談」を持ってきて、彼が変わった後を描かないと意味ないじゃないですか。
9巻の山本と響の再会シーンを持って来れればベストですが、スケジュール上難しかったのかもなので、オリジナルプロットでも構わなかった。
その「結末」が無くて、原作通りにしてしまった。
「あれだけ最初から出て来て、自殺を思い留まっただけ」のキャラに山本が落ち着いてしまったのです。
出番の割にインパクトが無かった。
結末があれば変わっただろうに、そこが残念でありました。
リカも山本も響に影響されて、最終的には自分自身を取り戻すんです。
自信を取り戻すと書いても良い。
ふみに自信を貰い、響に自信を奪われたリカは、響によって再び自信を取り戻す。
山本もまた間接的に響に自信を奪われ、彼女の言葉で自信を取り戻す。
同じ物書きとして認めた存在(響)からの言葉だったからこそ、自信を取り戻せたのでしょう。
「他人は他人。自分は自分。」
この結末は、しかし、原作では「ライトノベル編」終盤(9巻)にあります。
6巻までには確かに無いんです。
しかし、山本の下りでも書きましたが、この結末があるのと無いのでは全然「響という女の子」の評価が変わっちゃいます。
響はある種自分本位で生きてますが、それによって、人生を好転させた人間がいるんです。
リカも山本も救われている。
その「救い」が抜け落ちているから、響も暴力女で終わってしまっている。
出発と経緯だけを原作6巻までの通りに纏めてしまったのは、非常に痛い所でした。
終わりに
とはいえ、結構ウケていたんですよね。
多くのシーンで笑い声が響いてました。
声からすると、恐らく40代より上の方々。
大人になって長い御仁らからすれば、響は「非常識で不快なキャラ」に映ってもおかしくないんじゃないかと思ったのですが、実際の所はそんなことないのかもしれません。
リアクションから察するに楽しまれていたようなので、そこは1人の原作ファンとしては嬉しい気分になりました。
なにより笑い声聞いてると、こちらも楽しい気分になるのでね。
映画の醍醐味ではありますよね。
響に影響された云々と小難しいことを考えずに、エキセントリックな響の活躍を肩の力を抜いて楽しむ映画として見るのが正解なのかもしれません。