「暗殺教室」 人が死ぬ作品を嫌いな僕がそれでも感動し認めた理由

この記事は

「暗殺教室」の考察記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

「映画 暗殺教室~365日の時間~」感想から

映画「365日の時間」を鑑賞して参りました。
2期通算47話を100分弱にどう纏めて来るのかと興味があったのですが、既報通り2人のメインキャラ・渚と業(以降「カルマ」とカタカナで記載)の軸にした編集で、しっかりとテーマを抑えつつも時間内で纏められておりました。
暗殺教室を通して、殺せんせーの授業を受けて、この1年間でどう変わったのか。
生徒として、人間としての成長過程を2人のキャラに焦点を絞っていた為に、克明に浮き彫りになる構成となっていました。

感動のクライマックス部分を余すところなく描き、殺せんせーの人となりやせんせーと生徒達の絆がしっかりと画面から伝わってくるという非常に素晴らしい総集編だったなと。

さて、本題です。
僕は基本的に、人が死ぬお話が好きではありません。
え?
好きな漫画ですか?
「金田一少年の事件簿」や「名探偵コナン」ですが、なにか?

み、ミステリとかはいいんですぅ。
とかく、意味無くキャラクターを死なせる作品が嫌いなんですね。

特にそれが結末に影響すると尚更。
バッドエンドが大嫌い、ハッピーエンド至上主義なのです。

そんな僕が、それでも「暗殺教室」は傑作の類であると認めています。
最後は殺せんせーが生徒たちの手で暗殺されてしまうにも関わらず。
僕は殺せんせーをキャラクターとして好きなのにも関わらず。

それは何故なのか。
今回のテーマとして書いてみます。

3E全体の絆

殺せんせーを殺すべきか否か。
せんせーの過去を知った上での究極の選択。
3Eの意見は真っ二つに割れます。
渚を主とする生きていて欲しい派とカルマ達暗殺続行派は、殺せんせー提案の元サバイバルゲームで対立します。

この対立を描くことって、物凄く重要でした。
3E全員が本気で、恩師の命について考え・悩んでいるというのが伝わってくるからです。
今回の映画ではカットされてましたが、一部の生徒が渚派からカルマ派へ意趣替えをするなど、生徒の中には確かな葛藤も見られていました。
故に、勝敗はどちらでも構わなかったのです。
最終的には、渚が勝利し、「期限ギリギリまで生存の方法を模索し、その後は全力で殺す」となったからです。

この結論は、生存派も「せんせーの暗殺に心の底から全力で反対している訳では無い」というのが見え隠れしています。
カルマが主張したように「せんせーが全力で守った暗殺教室」を大事にしたいという想いは全員にあるんですよね。

生徒達が殺せんせーをどう想っているのか。
どこまで本気で想っているのを端的に表しています。

で、生徒を見れば先生が見えてくる。
生徒は先生の鏡。

カルマが良い例です。
初対面の折、先生であることを捨てなかった殺せんせーに感化され、殺せんせーを先生として認めたカルマ。
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生徒達の殺せんせーへの本気の想いは、覆って、それだけ、殺せんせーが生徒達を真摯に本気で愛した証左になります。
しっかりと、本当にしっかりと。
3E全体の絆が描き出されてるんですよ。

殺せんせーを暗殺する事こそ、この教室の本質であり、本懐である。
生徒達も殺せんせー自身もそれを明確に意識していることが分かるエピソードなんですよね。

合理的に追い込んでの暗殺

こうした想いを克明にしたうえで、追い込み方が実に上手くて丁寧。
爆発する可能性が1%以下とはいえ、人類にとって脅威であるのは事実。
殺せんせーの人となりを知らない人間からすれば、せんせー自身が認めるようにやはり唯のバケモノでしかない。

その恐怖は、国を動かして、地球全土に伝播する。
殺せんせー暗殺最終兵器の稼働は納得出来る自然な流れでした。

完璧に追い込まれる訳です。
時間が来れば、宇宙からのレーザー光線で殺せんせーは逃げ場も無く消滅してしまう。
誰とも分からない人間に恩師を殺されるくらいならば、自分達の手でと3Eがなるのは当然の成り行きです。
当のせんせー自身がそれを望んでいるのもあり、そもそも暗殺は彼らの絆そのものなのですから。

ココまでのものを魅せられると、「殺せんせー生存してのハッピーエンド」を強く望んでいた僕としても、感動せざるを得ませんでした。
心から暗殺されて良かったという表情で逝ったのですから。

まとめ

人が死んだのに、ハッピーエンドという何とも奇妙な、言葉にすると違和感バリバリの結末だったんじゃないかな。
「暗殺教室」という作品は、間違いなく僕の心に足跡を残した紛れもない傑作である。
それを改めて映画を通して認識した次第です。

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