「かぐや姫の物語」の主題と思しき「生きる事とは?」に主眼を置いた感想

この記事は

「かぐや姫の物語」の感想記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

はじめに

スタジオジブリ最新作の「かぐや姫の物語」を鑑賞してきましたので、ネタバレありまくりの感想を書いていきます。
主にシナリオ面に注目しての感想です。

雑感

今更と言って良いと思うんです。
日本人なら誰しもが知る「かぐや姫」。
原典である「竹取物語」(このタイトル、正式名称では無くて通称なんですね。)こそ読まれた方は少ないかもしれませんが、多くの人にとっては絵本やアニメなどで馴染み深い作品です。
この古典を取り上げたのですから、何かしら斬新的な解釈が含まれているものと考えたのです。
だから、僕は普段ジブリ作品を率先して見ようとはしないのですけれど、生まれて初めてと言って良い程積極的に行動してみました。

結果。
実に原典に忠実なストーリーラインをした映画であり、僕が期待していたような斬新さは微塵もありませんでした。
この点肩透かしを食らった感じです。
オリジナルプロットやアレンジは当然ありましたけれど、基本となる物語は再現されており、ラストも一緒。
僕と同じような気持ちを持って映画を鑑賞した方は、似たような感想を抱いたんではないでしょうか。
でも、「血の通った童話」として成立している映画でもあったと僕は解釈しております。

絵本などで伝わる童話って、ページ数の都合や「子供に読み聞かせる為」という主題もあってか、心理描写や子細なプロットはオミットされ、簡素に出来ているのが常です。
かぐや姫が何を思い、何を考えて、地球に来て、月へ帰って行ったのか。
絵本だけでは深くは分からないし、多くの謎を残していたりします。

この映画はかぐや姫の心理描写にスポットを当てて、非常に納得いく物語へと昇華されていました。
古典の「竹取物語」を現代風にブラッシュアップしてあり、かぐやの感情変化や扇・媼夫妻の親心など、非常に分かりやすく感情移入できる形になっていて。
僕はこの映画を「童話・かぐや姫」の新しいスタンダードにしても問題無いと思うんですね。
それ程、しっかりとしたテーマを持った作品に昇華されていたと考えます。

生きる事

では、テーマって何というお話。
「答え」は分かりませんけれど、個人的には「生きる事」と解釈しました。
これは例えば近作では細田守監督の「おおかみこどもの雨と雪」と同じかな。
鑑賞はしてませんが、この夏公開された同ジブリの宮崎監督引退作でもある「風立ちぬ」も同じなのかもしれません。

この「生きる事」。
2つの生き方が提示されていました。
それぞれの生き方には”主人公”が設定され、作品の主人公であるかぐや姫がどっちを選択するのかで、作品としての答えを示しているという構造。

1つは、”人間らしい”生き方
この”人間らしい”というのは、個人の価値観や思想などで変わってくるものですけれど、作中では、泣いて・笑って・怒ってと感情豊かに、食べて寝て遊んで仕事するような…。
人として誰もが等しく与えられる最低限の営みを大切にして生きて行く。
そういう生き方であったかな。
ちょっと間違ってるかもですが。
何はともあれ、この生き方の”主人公”が捨丸。

もう1つは、”人間らしくない”生き方ですね。
この”人間らしくない”というのは以下略。
まあ、高貴な暮らしを人間らしくないと論ずるのは何か違う気もしますが、作中では、このような生き方を人間らしくないとかぐや姫自身が表現してましたので、こう表現させて頂きます。
なんだかこう書くだけで、答えが明らかなんですけれど、気にせずにw
こちらの”主人公”は翁。
娘であるかぐや姫の事を想っての生き方を選択していました。

では、物語の進行に合わせて、この2つの生き方の対立構造に着目して振り返ります。

第1ラウンドは、物語序盤。
子供達が、たけのこのようにすくすくと成長するかぐや姫を称して彼女の事を「たけのこ」と名付け、「たーけのこ、たーけのこ」と連呼。
はいはいしか出来ない赤子のかぐや姫を呼び寄せるシーン。
ここで翁が大人げなく子供達に対抗心を燃やします(笑
「ひーめさま、ひーめさま」と力の限り呼び、かぐや姫は翁の下へと戻っていくんですよね。

一見、翁=”人間らしくない生き方”の勝ちのように見えますけれど、そうじゃなくて。
この頃の翁は子供達と同じ生き方をしてるので、”人間らしい”生き方の勝ち。

第2ラウンドは、中盤の祝宴の時。
高貴な生活を拒むかぐや姫ですが、彼女の意に反して翁は大宴会を開催。
そこで非常にショッキングな言葉を聞いた彼女は一心不乱に町を駆け、野を抜け、”故郷”へと逃げて行きました。
“人間らしくない生き方”から逃避したのですけれど、肝心の”人間らしい生き方”もまた居なくなっていた。

生家は人手に渡っていて、捨丸も山から去っていた。
彼女は気を失い、気づいたら元の宴会場に戻っていた。
夢か現か。謎を残して、この出来事の後、かぐや姫は”人間らしくない生き方”に屈服しました。

この後も、”人間らしくない生き方”に染まってしまった現実を思い知らされるシーンがあったかな。
桜を見にお花身に出た際、はしゃぐかぐや姫は、赤子とぶつかってしまいました。
本来であれば、常識的に大人であるかぐや姫が、ぶつかってしまった事を親御さんに謝罪する場面です。
でも実際は真逆。
赤子の母親が必死に許しを請い、頭を下げる。
それを見た赤子の兄(こちらもまだ幼い子)も頭を下げて来る。
非常にショックだったんでしょうね。
周りからは完全に”人間らしくない生き方”をしてる人種と見做された現実に。

この直後、”人間らしい”生き方をする捨丸と出会い、言葉を続けられず顔を背けてしまったのも、この現実を見られたくなかった想いの現れだったのかもしれません。
完全に”人間らしくない生き方”に身を”落とした”かぐや姫。

遂に最終ラウンドが訪れました。
月からの迎えに嘆き悲しむかぐや姫の為に、媼が気を利かせて故郷の山へ彼女を連れて行きました。
そこで捨丸と再会したかぐや姫。
一緒に逃げようという言葉に、彼女は自分の気持ちに正直になりました。
“人間らしくない生き方”の象徴でもあった豪奢な着物を脱ぎ捨て、捨丸と一緒に空を飛ぶ。
自由に生きる事を「飛んでる」と表現したり、「羽を伸ばす」という慣用句が有ったり。
とかく日本人って、飛ぶ事と自由になる事を結び付けますけれど、これも同じですよね。

空を飛ぶという表現は、まさしく”人間らしい生き方”をかぐや姫が選択した証左となっています。
完全に捨丸が選ばれた事。
即ち、”人間らしい”生き方が「答え」であると明示された瞬間でした。

まあ、当初からかぐや姫は翁の生き方を否定し続けていましたけれどもw
眉毛を抜く事やお歯黒にする事を嫌い、感情も表せない生活を「人では無い」と断じてみたり。
翁に直接「高貴な生き方は望んでない」と言ってみたり。

なんていいますか、普遍的かつ典型的な親子関係ですよねw
親の望む子の幸せと子が夢見る幸せが相容れない事って。
翁とかぐや姫の関係がこのまんまでした。

そもそも翁は、この生き方を「天啓」として推し進めてきました。
竹から黄金が取れたり、着物が飛び出したり。
「天がかぐや姫にこの着物の似合う生活をさせろ」と仰っていると信じ込んで、かぐや姫の為を想って奔走した。
時には媼が制止するのも聞かずに。
愛娘の為を想っての行為でしたが、かぐや姫自身がこれを望まず、かつ、月へ帰る原因となってしまったのですから、翁はやり切れない想いだったんじゃないでしょうか。

ともあれ、かぐや姫は自由に生きる事を望んでいた。
そもそも月から地球に”堕とされた”理由がこれだったと説明されてましたね。
“人間らしい”生活を望んだ”罪”で、地球に送られてしまった。

誰にかといえば、月に住む聖人達に。
最後にこの作品の黒幕である彼らについて、物語を再度振り返ってみます。

童話の黒い部分

月に住まう彼らは、第一に地球に住む人間を見下していました。
これは天女(?)の言葉からも明らか。
人間の持つ感情を下らないモノと切り捨て、そんな下らないものに左右される人間自体を下に見ていた。
これは月全体の意志であり、かぐや姫が罪人にされた事からも確かな事。

では、何故かぐや姫を地球に送ったのか。
かぐや姫を見捨てたから?
僕は違うと思うんです。
かぐや姫に人間を絶望させ、余計な感情を自らの意志で捨てさせるためだったんじゃないかなと。
感情を持つ事、人間らしい営みへの憧れを捨てさせるために敢えて人間の下へ送った。

でも、ただただそれを見守っていた訳では無くて、数々の策謀を巡らせた。

1つは、翁のマインドコントロール。
彼に金や着物を与えて、かぐや姫に高貴な暮らしをさせる様に仕向けた。
翁が「天啓」としていたのも、あながち間違いじゃなかったんでしょうね。
ただ、その背景が違った。
翁は「かぐや姫の為」と信じて行った事も、月から見れば「”人間らしくない生活”というかぐや姫の嫌がる事をさせる為」。
全く真逆の想いが背景に働いていた。

2つ目は、”人間らしくない生活”からかぐや姫を逃がさない事ですね。
2度ありました。
最初は上にも書いた祝宴の時。
場から逃げたかぐや姫を元の場所に戻した行為ですね。
このシーンを見ていた時は、翁の使いが倒れていたかぐや姫を見つけて元に戻したのかなとか考えたりと、イマイチ判然としなかったのですが、月からの使者を見て理解しました。
かぐや姫が倒れた際と、月からの使者が登場した際、両方に描かれていた小さな天女。
月の人間が、その不思議な力でかぐや姫を元に戻したのでしょうね。

2度目は、これも先程書いた捨丸と空を飛ぶシーン。
この場面は、捨丸が夢だったのかと勘違いするような形で終えました。

空を飛ぶ=自由になるという状態から地(海)に落とすという表現で、かぐや姫の自由が月に拘束された事が暗に示され、夢オチは月の不思議な力による「改変」と見做せる。
捨丸という”人間らしい”生活から強引に引き離し、”人間らしくない”生活に戻した月の策謀。

月の策謀は見事功を奏し、かぐや姫は心の底で「人間から逃げたい」と願ってしまった。
童話って子供の情操教育に相応しい内容なのが常ですけれど、それはそうなるように編集されているからという部分もありますよね。
グリム童話とかその代表例でしょうか。
残酷で恐ろしい面を持ち合わせた作品も多く、この「高畑監督版かぐや姫」もそんな一面を含んでいたかなと。
童話らしい物語の裏にも、非常にどす黒い物語が脈付いていました。

終わりに

童話としては、少々難しい部分もあったかもしれません。
幼稚園児程の子供がかぐや姫や翁らの心情を理解出来るかというと、イマイチ疑問ですし。
なにより上映時間が長いですからね。

なので、”「童話・かぐや姫」の新しいスタンダード”と言っても大人の為なのかなって。
見る人によって色々と考えられることが違ってくるとも思うので、一度は鑑賞してみるのもいいかもです。
かぐや姫の生き方に共感出来るかどうかでも変わって来そうですしね。

僕はその点共感できました。
物語の本筋自体に新鮮味が無く、既知のモノであった為、手放しで面白かったとは言えないのも正直なトコですが。
見て良かったと思える映画ではありました。

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