台詞中の句読点について「めだかボックス」の台詞に込められた意図を考える

はじめに

漫画の吹き出しの中の台詞。
句読点を意識しつつ読んだ事ってありますでしょうか?
僕はありません。

終わり。

台詞の中の句読点

実際僕は無いのですけれど、意識してみると面白いと思えたのが、今週の「めだかボックス」。
そこで、少し台詞中の句読点について考えてみました。

先ず有名なのが、小学館の漫画には句読点が必ず付いてくるという事ですね。

参考:wikipedia
ふきだしの中の台詞には句読点はつけないのが普通であるが、疑問符・感嘆符などは頻繁に使用される。
小学館など句読点を使用する出版社も少数ながら存在する。

更にいえば、どうやら小学館の中でも、少年誌と青年誌掲載の漫画には句読点が付き、少女漫画誌には付かないそうです。
少女漫画は読まないので知らなかったのですが、以下のサイトに詳しく書かれています。

「吹き出しに句読点があるのは少年漫画だけ?」(「Daily Portal Z」さん)

何故句読点を付けるのかと言うと、答えは分かりません。
ググってみると、「学年誌などを出版しているから」というのが出てきました。
「きちんとした文章表現にしたい」という顕れなのかもしれません。
なんとなく納得しちゃいました。(これでは、何故少女漫画には付かないのかが釈然としませんけれど)

それはさておきまして。
この句読点は、小学館の編集者サイドで付けている事はほぼ事実として良いかと思います。
上記リンク先の記事を引用させて頂きます。

複数の出版社で単行本を出している漫画家さんのばあい、例えば『富江<全>』や『うずまき』で有名な伊藤潤二さんの本は、小学館から出ている『うずまき』には吹き出し句読点があり、朝日ソノラマから出ている『富江<全>』には吹き出し句読点がない。

作品によって、句読点を付けたり付けなかったりと作家サイドで工夫している可能性もありそうです。
しかし、殆どのケースで上記伊藤先生と同様だったりします。

例外としては、あずまきよひこ先生の「あずまんが大王」でしょうか。
アスキー・メディアワークス版も近年小学館から出版された新装版も、共に吹き出しに句読点が付いておりません。
これについては、憶測ですが後述します。

以上より、編集者サイドで付けられているとしましたが、それでは、漫画の制作過程はどうなっているのか。
それにも言及しておきます。

台詞の写植は誰が行うのか

漫画制作の過程を描いたエッセイやら漫画やらで有名な話ですが、吹き出しの中の台詞は全て担当編集者達が頑張って夜な夜な原稿に”貼って”いるんですよね。

漫画家は、吹き出しの中に鉛筆などで台詞を手書きで書くだけ。
あとは、写真植字機によって出力された「写植版下」(所謂「写植」)を編集者が一つ一つ貼って言って完成させているようです。

とはいえ、今はデジタル化されているみたいですけれど。
先日放送されたアニメ「まんがーる!」第5話「写植ミッドナイト」でも描かれていましたね。
台詞に使えるフォント集とにらめっこし、台詞や場面に合わせた適切なフォントを選択。
台詞を打ち込んで、取り込んだ原稿の画像上に貼っていました。

つまりは、漫画の吹き出しの台詞は、全て編集者が担当しているという事ですね。
漫画家さんが考えた台詞に、適切なフォントで写植を起こし、原稿に貼り付けて完成させる。

この過程で小学館では、わざわざ句読点を付けているのではないかと思っております。
作者サイドで句読点を付ける事もあるでしょうけれど、基本は編集者サイドで付けていそうです。

先程の「あずまんが大王」の場合は、若しかしたら編集業務を一貫して「よつばスタジオ」で行っているからなのかなと考えています。
「よつばスタジオ」は

あずまきよひこ作品の制作・ディレクション・著作権管理、ならびに企画・デザイン・書籍編集・広告制作・文章制作などを行う
(出典:wikipedia)

会社であり、代表取締役も務める里見英樹さんは、編集までこなす方ですから。

里見さんが編集したから、小学館で出版したものであっても従来通り句読点が付かなかったのではないかと見ております。
これが正しいかどうかは分かりませんけれども。

んで。
この推察を元にすると、「名探偵コナン」等でお馴染みの青山剛昌先生は句読点を付けられることを嫌っているのかもしれないと思えてきます。
特に句点(「。」)の方を。

句読点があるかどうかで、台詞に対する印象も変わりますからね。
作家からすれば、勝手に付けられたくないと思っても不思議では無いと思うのです。

青山漫画の台詞の特徴

「名探偵コナン」第78巻の全台詞を調べました。
驚くべきことに、句点は0でした。
一度も使われていないのです。
試しに「銀の匙」第1巻第1話だけを調査。
同じく句点の数を調べてみますと、なんと88回!!!
たった1話の数です。

これだけを切り取ってみても、青山先生が意図的に句点を使わない様にしているのではと思えてきます。
で、何故「コナン」には句点が無い(少ない)のか?
別に特別扱いされている訳ではありません。
句点が付かない様に台詞が工夫されているだけなのです。

文章中に使われる約物は句読点以外に何があるのか。
疑問符や括弧、アクセントなどですね。
特に句点の代わりとなり得るのは何か…。
具体的には

    1. 感嘆符(エクスクラメーションマーク) !
    2. 疑問符(クエスチョンマーク) ?
    3. 三点リーダー(三点リーダ) …
    4. 二点リーダー(二点リーダ) ‥

等でしょうか。

青山先生は、この中で三点リーダーを好んで多用しています。
三点リーダーって、文の末尾に付ける事で余韻を感じさせたりする場合に使いますが、青山先生はそういうのお構いなしにほぼ全ての台詞の末尾に付けているんですw
という事で、三点リーダーについて調べてみたら、面白い事が分かりました。

例えば。
a)そして伝説へ…
b)そして伝説へ…。
上記2つの文章で用法的に正しいのはどちらでしょうか。
答えはa)なんですってね。
普段文章を書いていて、当たり前のようにb)の方で使ってましたけれど、三点リーダーの後に句点は不要なのだそうです。
(あっても間違いという訳では無いそうですが)

そんな訳で、句点を付けさせないために三点リーダーを多用しているのではと推測したのですが、どうなんでしょうね。
ただ単に青山先生のクセなのかもしれません。

「めだかボックス」の句点に関する考察

ここから本題です。
「めだかボックス」第186箱のネタバレに触れております。
未読の方・コミックス派の方は、この先を読まないで下さい。

集英社刊「週刊少年ジャンプ」にて連載中の「めだかボックス」。
「WJ」では、基本的に句読点が付けられません。
なので、句読点がある場合は、作者の意志である可能性が高そうです。

最近では「めだか」の他にも「ハイキュー!!」でも偶に見かけますね。
で、「めだかボックス」ですよ。
第186箱「ここでさよならだな」で、面白い使われ方をされていたんではないかと思っております。

先ずはこの回の粗筋から。

(1)黒神家の家長を継いだめだかは、公約通り箱庭学園を退学する事に
(2)それを知った生徒会では紛糾。善吉が話し合って、真意を探る事に
(3)めだかが善吉に「一緒に来い」と誘う
(4)善吉はそれを断り、めだかは酷く傷つく(「2度も振られた」、「この傷はスキルでも治せない」)
(5)人知れず泣くから追ってくるなと言い残し、善吉の前から去るめだか
(6)めだかの壮行会を執り行う事を決める善吉

こんな流れです。
この回の中で、句点が使われている台詞のみを抜き出してみました。

(1)善吉「めだかちゃんと話してくる。俺はあいつの正直な気持ちが聞きたい。」
(2)めだか「箱庭学園の制服もこれで着納めだ―最後くらいは着崩さずに着こなしてみたいのさ 普通の女の子みたいにな。」
(3)めだか「あはは。で、善吉 貴様の荷造りは済んだのか?」
(4)めだか「一緒に来てくれ善吉 私の新天地に貴様がいないなど考えられん。」
(5)善吉「駄目だ。めだかちゃん 俺はお前と一緒にはいかない。」
(6)めだか「ここでさよならだな 善吉。」
(7)善吉「ああ。さよならだ めだかちゃん。」
(8)めだか「どこか人目につかないところで泣いてくるとするか くれぐれも善吉 ついて来るんじゃないぞ。」
(9)善吉「めだかちゃんは変わったよ。だから次は俺が変わる番なんだ。」

以上9つの台詞。
面白いと感じたのは、この9つの台詞だけで、この回で言いたかった事・やりたかった事が纏められているという点ですね。
この善吉とめだかのやりとりだけを読めば、この回の粗筋を読んだも同然になると思うのですね。

「WJ」では句読点が使われないと書きました。
使われている場合は、作者がわざと使っていると。
とすれば、西尾維新先生は意図的に句点を使っているのでしょうね。

この回では、特に重要な台詞にのみ句点を付けていたのかもしれません。
一種の「フラグ」として。
「フラグ」の立った台詞のみを読み拾っていけば、この回のキモは理解できますよと。

更には、めだかの台詞にも違った解釈が出来るんです。

粗筋の(4)

善吉はそれを断り、めだかは酷く傷つく(「2度も振られた」、「この傷はスキルでも治せない」)

は、句点付き台詞の(7)番と(8)番の間にあります。(粗筋の(5)に相当)
素直に読むと、
「善吉に振られ大きなショックを受けためだかが、善吉に泣き顔を見られたくないから(8)番の台詞を言い残した」
と解釈できます。

これが、句点付き台詞のみを抜粋したものだけを読むと
『善吉の「めだかから独立したい」という強い決意を尊重しためだかが、善吉の背中を押すために「(自分の後を)ついて来るんじゃないぞ。」』
と言っているとも解釈できそうなんです。

前半の「人目につかないところで泣いてくるとするか」は、一種の照れ隠し。
本心を隠すカモフラージュのようなもので。(まあ、実際ショックは受けたのでしょうけれど)

普段句読点を使われないからこそ活きる演出。
なのかもしれません。

終わりに

青山先生についても「めだかボックス」についても、僕の一解釈に過ぎません。
国語の問題みたいなものですよね。
よくある「作者の考えを述べよ」系の問題は、作者がいちいち「考え」を書き遺してでもいない限り、問題製作者の一解釈に過ぎませんしね。
これもそんなものです。

けれども、「めだかボックス」に関しては、間違いなく何らかの意図が込められていると思うのです。
色々と想像し、考えてみるのも面白いかもしれません。

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