鳥山作品には深い恋愛描写があったのではないかという考察

この記事は

「Dr.SLUMP」と「DRAGON BALL」。
2つの代表作を通して鳥山先生と恋愛描写に関して考えてみました。

はじめに

鳥山先生の有名なエピソードの一つに「ラブコメ(恋愛描写)が苦手」というのがあります。
「Dr.SLUMP」連載時にDr.マシリトに「恋愛描写を描くことを指示され、頑なに拒んだ」なんていう事もあったようです。
また、先生の友人でもある桂正和先生を引き合いに出して「恋愛ものは彼に任せた」という趣旨の発言をどこかでされていたと記憶していますが、ソースが見つからないw

兎も角…。
鳥山先生は自作に恋愛描写を入れることを徹底的に避けています。
千兵衛のプロポーズシーンなんて、千兵衛自身夢だと思ってしまった程のギャグシーンでしたしねw

そんな鳥山先生ですが、実はとっても深い恋愛描写を入れていたのではないかという事を考えた記事です。

名字が珍しい「DB」の世界

この記事を書こうと思った発端となったのが、下のシーンです。

「あんたと おなじ みょう字よね 今時 めずらしいわ みょう字と名前とわかれてるのは…」

ビーデルが悟飯に言った台詞です。
今まで何気にスルーしていた点ですが、よくよく考えると不思議です。

どうやらこの世界(の少なくとも悟飯が高校生の時点に於いて)。
名字がある事は珍しい事らしい。*1

ここから「何故名字が無くなったのか」なんて方向性に話を振ってもいいのですが、これやるといつぞや(動物型地球人の考察)と同じ結論=考えるのが面倒だからに達しちゃいそうなので、それは止めて…。
この一点より、鳥山先生と恋愛描写に関して考えていく事にしたのです。

でも考えてみると、あの世界で名字ってそこまで珍しいものとは思えないのです。
ペンギン村の住人がいるからですね。

「則巻」、「山吹」、「木緑」、「空豆」、「摘」。エトセトラエトセトラ。
ペンギン村の住人はほぼ全員名字があると思っていて問題無いかと思います。
「DRAGON BALL」のキャラは確かに悟空一家の「孫」くらいしか名字が出て来てませんが、「Dr.SLUMP」では名字は普通にあった。
勿論本来は別々の漫画だからなのでしょうけれど、一度「DB」に登場している以上は、考察の範疇に含めるべきかと。

とはいえ、何故ペンギン村の住人には名字が当たり前にあるのか。
いくつか考えてみました。

①田舎だから
 何言ってんだと言われそうですが、鳥山先生なら普通にこういう事を言いそうなのでw
②時代が変わったから
 これはありそう。
 少年悟空の時代では、作中にあまり出て来なかっただけでペンギン村のような「名字がある事」が普通だった。
 しかし時代が流れて、悟飯ハイスクール時代になると名字が廃れてしまった。
③ペンギン村が地球国家(仮称)に加盟していなかった
 これについて少しだけ詳しく書いてみます。

キングキャッスルを中心とする世界

「DB」の世界は、キングキャッスルに住む犬の国王様が治める一つの大きな連邦国家が中心となっています。
この国家は43の小国の集まりだそうで、ペンギン村のあるゲンゴロウ島が含まれる地域がこの連邦国家に属しているかどうかは定義されていません。

また、この国家は巨大すぎるゆえか、東西南北4つのエリアに区分けもされているそうです。
「DRAGON BALL 大全集」第4巻に於いて、ペンギン村はこの区分けの南エリアにあると書かれており、これより連邦国家に含まれていると見做すのが通例な気もします。
が、本編で言及が無い以上、本当のところまでは分からないのですよね。

結局のところ、ペンギン村に名字がある理由までは分かりませんが、名字と恋愛描写を絡めて考えてみることは可能なのかなと。

則巻家から考える同姓である事

現実のお話に目を向けてみますと…。
日本を含む多くの国では婚姻をすると「夫または妻の氏を名乗る」。
つまり”夫婦同氏原則”(←これは日本での民法上の表現。世界でどう言われているかは調べていませんので分からないです。)に則して改姓する事が”決まり”となっています。

則巻家でも、山吹みどり先生が千兵衛と結婚後「則巻」姓を名乗っております。
僕のような阿呆からすると、「同姓」になる事ってそれだけで「愛情」のある行為だと思っちゃうんです。
必ずしも結婚と言う一つの結論の過程に「愛情」があるとは限らないのは承知しています。
でも、殆どの夫婦は互いに愛していたから結婚という結論に達したのではないかと思うのです。
なので、「結婚」=「同姓になる」=「愛がある」という単純な方程式を作っていた。

この事から、「結婚」という行為を描いている事自体が「作中に恋愛を描いている」事になっている。
故に鳥山先生もがっつりと恋愛描写を入れていたんじゃないか。
と考えていたのですよね。

則巻家の様子を見ていると、そう思ってしまう。
鳥山先生が拒否っていたように、確かに2人の間に明確な愛情表現と言うか恋愛描写は無かったです。
わりと唐突に結婚しましたしw
強いて挙げれば、その結婚した回に於いて、みどり先生の千兵衛を見つめる視線が優しかった事でしょうか。
「恋する」というより、もっと上の「慕っている」という感じに見えましたから。

ただ結婚後は、円満な夫婦生活を築いていましたし、最後まで読むと2人の間には強い愛情があったように感じたのです。
それもこれも、みどりが「則巻」姓を名乗っていたから。
そう単純な僕は考えていました。

なんとも我ながら浅いw
ただ、今はちょいと違います。
「夫婦別姓」の事を表面だけでも知ったからです。

孫家から考える別姓である事

「結婚すると同姓になる」…。
これは僕からすればあまりにも一般的な事なので何の思いも抱けなかったのですが、もっと視野を広げると違うんですよね。
自分の「姓」というものを尊重し、結婚による改姓を良しとしない向きがある。
「夫婦別姓」で、これは今なお討論されている事です。
(結構前にこの話題を知り、既に「別姓」が認められ施行されていると思っていたのですが、まだなようですね。)

どちらが良いとか悪いとか。
そういうお話は門外漢の僕がどうこう言うべきでは無いですし、別に意見も無いので横に置かせて頂き。
「夫婦別姓」賛成派の意見の一つには、次のような考えがあるようです。

「姓」というのは家柄を象徴するものですよね。
親から祖父母。もっと前の世代の先祖に至るまで。
「姓」を変えることは、そういう他人の「家」の歴史を継ぐようなモノというか。

どちらか一方…夫または妻…片方の「家」に「入る」事になる。
ただ単に「名字が変わる」以上の意味合いを感じる人にとっては、これは辛い事なのでしょうね。
名字を変える事は即ち、これまで受け継いできた自分の「家」を「捨てる」事になるから。

「嫁に出る」とか「嫁ぐ」、「入婿」とかいう表現は、そういった想いから派生した言葉なのかもしれませんよね。
出自を調べてませんので、適当な事言ってますが…。

則巻家の項で触れました「結婚を描く」=「作中で恋愛を描く」という方程式自体はそうそう間違った事だとは思えません。
ただ、「同姓」=「愛情の証」というのが浅はかだったなと。

さて。
「夫婦別姓」というとまさに悟空の家がそうだったりします。
いや。ちょいと意味合いが違うのですが…チチやビーデルの事ですね。
どんな文献・関連書籍を見ても「孫チチ」という表現は一切無いはずです。
こればかりは僕も断言できます。
もしあったとしても、それは誤植かライターさんの凡ミスです。
同じように、ビーデルもまた「孫ビーデル」とは言われない。

チチやビーデルにはそもそも姓が無いので、「夫婦別姓」とは違う。
違うけれど、僕は似たモノではないかと思います。
先程も書きましたが「「同姓」になる事ってそれだけで「愛情」のある行為」という僕の考えは、いささか古い。
古いというか考えが固いというか…。

悟空とチチ。悟飯とビーデルの間に愛情が無いかと言うと、それは無いですよね。
描かれてこそいませんが、この2組の夫婦の間には確かに愛情があると思います。
則巻家に負けていないはず。

別姓でも同姓の夫婦同様の愛は間違いなくある。

まとめ

サブい事書きますが「愛情の形は一つじゃない」…というとなんか違うな〜。
「別姓」とか「同姓」とか。そういうものに縛られない愛の形が描かれているというか。
この辺は作品を読む人それぞれに違った考えが特にある部分かと思います。

「名字がある事が珍しい」という点から、かなり飛躍というか突飛な方向に行ってしまいましたが(汗
非常に深い「愛についての形」が鳥山先生は描いてきたのではないかなと思ったのですが…。
「姓についての問題」と「恋愛」は全く関係無い事なので、ただのこじつけな気もしないでもない。
どうなんでしょうねw

則巻家の方が良いのか。
はたまた孫家の方が良いのか。
色々と考える事の出来る深い恋愛描写の一種なんじゃないのかなと思った次第です。

千兵衛が28歳だと知り驚愕。
マジか…。ショックだw

*1:現実でも「名字が無い」国もあるようです。
モンゴルやアイスランド等々。
だから、「DB」世界のように「名字が珍しい」何てことも別におかしい事では無いと言えますね。

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